雨上がりに珈琲を

オスカー・フォン・ロイエンタールとウォルフガング・ミッターマイヤーが軍務省を出たときは、少々風が強かったが、空模様はいたって快晴であった。乾いた大気に呼応して肌を刺すような、外套の襟をつい立てたくなる夕暮れ時だった。
勿論、雨足の音すらもなかった。ゆえに、二人が徒歩にて帰宅を決めたのはそれほど突拍子もないことではなかったのである。地上車をに乗り込むこともできたのだが、根っからの貴族趣味であるロイエンタールは兎も角、ミッターマイヤーなどは『歩ける距離は歩くべし』なる庶民的理念且つ健康的思考の持主であったから、善意から提供された地上車を断って、冷たい空気の中、それでも心地良い黄昏時の散歩を楽しむ心算の二人であった。

ところが、天候と人事は度し難しのたとえどおり、その高く澄んだ朱空が急に暗くなった。古めかしい書物であるなら、一転俄かに掻き曇り――とでも称するような動向であった。
暗雲が立ち込めたと思うと、お定まりのように電光が走り雷鳴が轟いた。シュトラウス2世のポルカのごとく、軽快で荘厳なものに非ず、ただ暴れまわるのみの迷惑で不要の電気の独走である。
ちっとロイエンタールが舌打ちしたのは、雷鳴と稲妻のせいばかりではない。天から落ちて来た大量の水のせいである。まさに叩き付けるような雨が、瞬きをする間もなくミッターマイヤーとロイエンタールを包んだ。
「これは堪らんぞ!」
噎せ返る土と雨のにおいに、聴覚が弱体化してしまったかのようだ。ミッターマイヤーが大声で怒鳴ったのは突如振り出した雨に抗議をしたためではなく、そうしなければ触れ合うように近い位置に居るにも拘わらず、声が相手に届かないからだ。

歩くからと手ぶらであったことも不運のひとつであった。小さな鞄さえも多少の雨避けたり得るであろうから。水を含んで重くなった衣服が鬱陶しかった。ロイエンタールは水の滴る腕を伸ばして、前を走るミッターマイヤーの肩を掴んだ。できるだけ早く帰ろうと足を動かしていたミッターマイヤーは肩を掴まれて、怪訝そうに振り返った。まるで靄の中に佇むように視界が悪いが、ミッターマイヤーの顰めた眉が不機嫌そうな色を作り出すのがロイエンタールにはよく分かった。

「卿の家より俺の家のほうが近いが、それよりもそこを右に曲がったところにホテルがあったはずだ。そこで雨宿りしよう。風邪をひいてしまうぞ」
ロイエンタールの大声での提案に、ミッターマイヤーは肯いた。寄り道は好きではないのだが、贅沢を言っていられる状況ではなかった。この場合、『ロイエンタールの家に寄る』は、ミッターマイヤーの中で『寄り道』に含まれていない。当たり前のように何時も訪ねているからだ。

先導するように走り出したロイエンタールの後を追って、ミッターマイヤーも走った。ロイエンタールの言ったとおり、大通りを右に曲がったところに大仰ではないにせよ、それなりに整ったホテルがあった。ロイエンタールが通常、此処を何に使用しているか等は考えないことにして、ミッターマイヤーは蜂蜜色の髪掻き揚げつつロイエンタールに続いて自動ドアを潜った。水が大量に滴った。
これが本当の水も滴るいい男だな、と軽口をたたいたミッターマイヤーがロイエンタールを目で追うと、こう言うことにかけては妙に素早い親友はさっさとフロントで宿泊の高尚を始めていた。
泊まる心算のなかったミッターマイヤーは、『宿泊』の言葉を聞いて慌ててロイエンタールに駆け寄ったが、直ぐに時既に遅しと悟った。カード・キーを受け取ったロイエンタールが、嬉しそうに満面の笑みを湛えて振り返ったからである。

「502号室だそうだ」
恨みがましい視線を送ってくるミッターマイヤーを意図的に無視したロイエンタールは、技とらしくミッターマイヤーの鼻先にカード・キーを翳して振って見せながら先に立って、歩き出した。エレベーターに乗り込み5のボタンを押す。すぐに扉が閉まって圧力がかかった。
「エレベーターに乗ると、身長が縮むような気持ちにならないか?」
勝手に宿泊を決めたロイエンタールのことは腹立たしいが、何時までむくれているミッターマイヤーではない。額に落ちかかる水を含んだ前髪を手で脇に寄せながら、エレベーターに乗ったくらいではちっとも縮みそうにない、澄ました顔をしたロイエンタールに言うと、水にぬれて漆黒さながらになったダークブラウンの髪をミッターマイヤーに倣って掻き揚げたロイエンタールは、口元に嫌味な笑みを浮かべて鼻で嗤った。
「それ以上縮むと、奥方と背を並べるのではないか?」
ロイエンタールの軽口に、ミッターマイヤーは青筋を立てて思い切り悪者の足を踏みつけてやった。わざとらしい悲鳴が聞こえたが、何処吹く風を装ってやった。先程の意趣返しである。
ミッターマイヤーの愛妻・エヴァンゼリンは燕のように身軽で細やかな女性だが、小柄ではない。だが、勿論ミッターマイヤーのほうが背は高い。然しロイエンタールとの差ほどは差がないという現実に、ミッターマイヤーは少々の腹立ちを禁じえない。

ミッターマイヤーは明後日の方角を向いて、ロイエンタールはそんなミッターマイヤーを面白そうに眺めて、お互いに口をそれ以上利かぬうちにあっという間に5階に着いた。
チンというはっきりした音と同時に扉が開いて、薄いベージュ色の絨毯を敷き詰めた小規模なホールがあって、案内板に『500〜520』との矢印が書かれていた。それの通りに進むと、直ぐに502と書かれた札の下がったドアが見付かった。
ロイエンタールがカード・キーを差し込むのを横目で見ながら、ミッターマイヤーは内心溜息を吐いた。ロイエンタールとこう言った場所に来れば、後に来るものは決まりきっている。
ミッターマイヤーが拒否しても、それは認められないのだ。理不尽極まりないと思いはするものの、ミッターマイヤーとてその状況に陥れば、それなりに楽しみもするので余り強いことが言えないのである。それを承知で強引に事を進める癖のあるロイエンタールが、全く忌々しくないと言えば嘘になるが。

***

濡れた軍服を脱ぎながら風呂を覗くと、それなりの広さがあって、いささかミッターマイヤーは嫌な予感がした。人間の第六感など当てにはならぬかも知れぬが、このときはその予感に間違いはないと思って良いように思われた。なぜなら、何時の間にか背後に立ったロイエンタールが、ミッターマイヤーの両肩に手を置いて耳元で囁いたからだ。
「俺も寒い、卿も寒かろう。ここは――共に湯に浸かるのが賢明な策ではないか?」
「………」
ミッターマイヤーが無言だったのには理由がある。どうせ拒否したところで、強引に連れ込まれる。殴り合いでもして逃れる方法はいくらでもあるが、ロイエンタールの言うとおりミッターマイヤーも寒かったのである。
妙な意地を張って、風邪をひくのも馬鹿らしいというものだ。今度は内心ではなく溜息を吐いて、ミッターマイヤーはさっさと残った着衣を脱ぎ捨てた。常日頃から思っていたことだが、『服を脱がされる』という状態は男としてあまり愉快なものではない。脱がされる前に脱ぐべし。
ミッターマイヤーが全裸になって風呂場のドアに手を掛けた時には、妙に素早いロイエンタールは、疾うの昔に全ての着衣を脱ぎ去っていた。いささかの呆れた視線をロイエンタールに送りながら、亜細亜式に湯を溜め始めるその後ろにやや間抜けな格好で立たされる破目になった。

勢いの良い湯の出方に、すぐにバスタブはいっぱいになった。いそいそと身を沈めたミッターマイヤーの横にロイエンタールも遠慮なく入り込んだ。ざっと言う音がして、湯がこぼれた。零れた分だけロイエンタールの体重があるのかと、アルキメデスのようなことをぼんやり考えていたミッターマイヤーは、突然の刺激にわっと声を上げた。バスタブに身を沈め、手足の冷えを取り去ろうとしていた――のはミッターマイヤーだけであったらしい。共に湯に浸かる親友は、始めからその心算だったらしい。矢張り、という言葉がミッターマイヤーの脳内に浮かんでは消え、そしてまた浮かんだ。
まだ温まりきっていないロイエンタールの手が、ミッターマイヤーの急所を掴んだために上げた声だった。柔らかく然し適度な強さで揉み上げられて、口から吐息が漏れた。
抗うことは始めから諦めた。抗うだけ体力の無駄である。冷えて、そして疲れてもいたので力を抜いてロイエンタールに身を委ねるのも悪くないかも知れない、そうミッターマイヤーは思った。
ロイエンタールの動きによって、水面に波紋ができる。その現れては消え、消えては現れる小さな螺旋をぼうっと見詰めながらも、ミッターマイヤーの感覚は鋭く尖っている。

絶妙な刺激に背筋がぞくりとして、ミッターマイヤーは唾液を飲み込んだ。声が今にも漏れそうだ。ロイエンタールにしてみれば、それは願ったり叶ったりであるのだが、ミッターマイヤーはそう簡単に願いを叶えてくれる心算はなさそうである。
それでもロイエンタールは幾らかの声が聞きたくて、弄り回しながら引き締まった腹を撫でる。ミッターマイヤーが身を捩り、湯がちゃぷんと音を立てた。
湯の中でも分かる健康的な肌は、刺激に忠実でそして鋭い。きゅっきゅと更に揉み立て、耳朶に唇を寄せると温まったせいではなく赤みを持った頬が、ぴくりと動いた。

硬さを持ち始めたその場所を、無遠慮に刺激し続けると、湯気にかすんだ蜂蜜色が揺れた。はあはあと荒い息がミッタマイヤーの気の強そうな唇から漏れ出る。
頃合を巧みに見計らって、ロイエンタールは俯いたまま肩で息をするミッターマイヤーの腰を引き寄せた。グレーの瞳がけぶるような光を湛えて、ロイエンタールの金銀妖瞳を見詰める。
それが合図となった。僅かに浮かせた腰の下に、下肢を滑り込ませてロイエンタールはゆっくり突き上げる。すぐに肉の抵抗が起こり、湯が入って多少柔らかくなっているとは言え、狭道を割り裂くのはロイエンタールにも少々の苦痛を与える。それでも、この行為を止めようと思わないのは、それを上回る喜びがあるからだ。

ミッターマイヤーとて、身体は楽ではない。否――ロイエンタール以上にいつも苦労をするのがミッターマイヤーである。内臓を抉られる感覚に、頭がグラグラした。痛みとも快楽ともつかぬ突き上げに自然と唇が開いて行くのを懸命に閉じるのだが、また直ぐに開いてしまう。
揺さ振りで湯が動いて、ちゃぷちゃぷと音を立てる。ロイエンタールが首筋に吸い付くと、ミッターマイヤーが頭を振ってそれを拒んだ。
痕は残すなという意思表示に、少々の興覚めを感じたが、それもやむを得ぬ。愛妻家のミッターマイヤーのことだ、恐らく妻を憚ってのことであろう。ロイエンタールはそれが分かっていて、無理強いしたくなる。俺と奥方のどちらが大事なのかなどと、小娘の嫉妬のような真似をする心算はないが、むくれてみたくなるロイエンタールである。だから、その仕返しにしっかりと根元まで納めて、硬くなっている部分を扱く。更に息が上がって、噛み締めた奥歯がキリキリと鳴った。
「……あ」
力いっぱいロイエンタールが抱き締めると、やっと声が漏れた。熱を孕んで濡れた声音は、通常のミッターマイヤーの声とは思えぬ程色づいて、ロイエンタールの耳に届いた。

***

温めたカップに、コーヒーを注いで、たっぷりとミルクを入れる。挽いたばかりの香りが鼻腔に届いて、ミッターマイヤーはほうと息を吐いた。
「いい香りだな」
カップを受け取って啜りながら、目の前の男に言う。ロイエンタールも小さく肯いて同意を示した。備え付けの上等とは言えぬものだが、挽いたばかりだとなぜか美味い気がする。それに、淹れ方も良いのだ。
ロイエンタールが御自らコーヒーを淹れて差し上げる相手は、宇宙広しと雖もたった一人しか居ない。その貴重なたった一人は、熱いコーヒーを啜りながら、眠そうにグレーの瞳を擦った。
「疲れたか?」
気遣いを見せるロイエンタールに曖昧に肯いたミッターマイヤーは、眠気覚ましを飲んだにも拘わらず大きな欠伸をしてそのままソファにころりと横のなった。
ロイエンタールは苦笑しながら、「奥方に外泊の連絡は入れろよ」と呟いた。尤も――その言葉がミッターマイヤーの耳に届いたか否かは、神のみぞ知る。
あの激しい雨は、もう上がっているようだ。




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