桜の木の下で

「桜か」と、金髪の青年はそれを見上げて言った。

樹齢は百年は行くのだろうか。ずっと此処で春には薄紅色の花を満開に咲かせている。
「大きいですね」赤毛の青年の感想は率直だった。
「うむ。・・・この淡い色が、私は好きだな。白なのか紅なのか一目ではわからぬ色合いが儚げで美しい」
彼もまた、同様の感想を胸に抱き、前を行く二人以上に桜に惹かれていった。




「メックリンガー提督、何を描いておられるのです?」
あの日共に桜と遭遇したジークフリード・キルヒアイスが部屋に入ってきた。
メックリンガーはふっと笑みを零して、描きかけのキャンバスを見せてやると若い少将は「あっ」と声を上げた。
「あの桜ですね!」
「ご名答。・・・だがやはり頭の記憶を頼りにするのは限界があるみたいだ」
「とても綺麗でしたね。また機会があれば見に行きたいです」
キルヒアイスは瞳を輝かせて言った。
彼はラインハルト・フォン・ローエングラム以上の豊かな感受性とそれに値する表現力を兼ね備えており、芸術にも大変関心と興味が強かった。
―世が世なら芸術家にでもなれたであろうに・・・・・・・
そう嘆息しながらも、その才能を見初めたメックリンガーは時折所有する詩集や歌集などを貸し与えて感想を伺うことを楽しみの一つとしていた。
「桜は季節が短い。できるなら早い内に行きなさい」
「はい」
そこで彼等は仕事の話へ戻った。




休日。メックリンガーは早速画材道具一式を抱えて桜の木のもとを訪れた。
桜は相変わらず静かに花を咲かせて佇んでる。
「やぁ」と、何とはなしに声を掛けてみる。
「君の絵を描いている。邪魔はせんからどうぞそのままにしていておくれ」
何を言ってるんだかと苦笑して、見晴らしの良い場所にキャンバスを広げる。
桜は年を感じさせるどっしりと太い幹から華奢かつしなやかな枝が天高く伸びている。
まるで、男性の逞しさと女性のたおやかさをこの一本の木で体現せしめている。
あらゆる角度からスケッチを試みながら何故ここまで執着するのか考えても見たが、答えは見つからない。
「君は面白いな」
再び独りごちた。
「場所を変えて描いてみれば形は変われども、表情は全く変わらない」
桜は黙って聞いているのか。
「君によく似た人物を、私は二名ほど知っているがね・・・」
ま、誰と言われたって桜に解るわけもないのだが。
彼は一息つこうと、淹れてきたカフェオレを飲むことにした。






「閣下?・・・閣下?」
はっと我に返ると、目の前に部下の心配そうな顔があった。
「いかん。眠っていたか」
「・・・大分とお疲れのようですね」
「すまない。職務中だと言うのに・・・」
「いえ・・・あまりご無理をなさらないで下さいよ?」
部下は本気で心配していたようだ。言っているそばから熱いコーヒーを差し入れてくれた。
「ありがとう」と言い、書類に目を落とした。
少しでも時間と余裕があれば桜の絵に没頭したいところだが、現実はそう上手く行かないものだ。
「提督! ヴェストパーレ男爵夫人がお見えになられてます」
メックリンガーは書類から顔を上げた。
「夫人が? わかった。お通ししなさい」
珍しい来客だと思った。夫人は芸術保護活動で各地を奔走している。古典音楽にも造詣が深く、講師を務めることもしばしばあった。
彼とはその方面で公私の付き合いを長年にわたってしている、いわば芸術仲間だ。
「こんにちは。提督」
「バロネス、ご機嫌麗しゅう」
彼はその手に軽く口づける。
「お忙しいところ、押しかけて来てごめんなさいね」
今日は活動の報告に来たのだと言う。メックリンガーは部下にお茶の用意を申しつけた。
「あら、お構いなく。あ! そうそう」
夫人が嬉しそうにパンと手を打った。
「風の便りにお聞きしたのだけど、また作品を描いてるそうね」
「おやおや。すでにご存知とは・・・さすが御夫人は耳ざとい」
「今回は何を描いてらっしゃるの?」
ずずいと迫る彼女に両の掌を見せ「降参」の意を示すが、
「駄目です。今回ばかりはバロネスと言えど秘密です」
と、そのつぶらな瞳にいたずらな光を含ませる。
「ケチねぇ」と頬を膨らませる姿は男爵夫人というより、無邪気で活発な乙女そのものだとメックリンガーは思う。
「では、完成したら教えてくださいましね?」
「ええ」と答えて、微笑んだ。


――早く仕上げなければ。


無性に逸る気持ちを抑え、パレットに絵の具をしぼり出す。
どんなに美しい対象を描いても、彼の心は終始なだらかで、少し悪く言えば冷静沈着に向き合ってきた。

ところがこの桜を描き始めてからはどうか。
緊張。興奮。そして動揺を詰め合わせたときめきが今、「芸術家提督」としてその名を馳せる男の全身を満たしている。
彼は震える手で続ける。
が、急に手は止まった。
花弁の色をどうするか・・・・・・・。彼は考えあぐねていた。
―――「一目ではわからぬ色合い」。いや、一目も二目でもわからぬ桜の花。
「・・・遙か昔、地球のとある国の皇妃がお抱えの画家に自身の肖像画を描かせた。画家は色を入れようとして、ふとこう零した。『妃殿下のお肌の色はとても美しすぎてどう色を調合しても、同じ色が出ません』とね―」
人知れず口から出ていた。
思わず口元を歪めて、折りたたみ式の椅子の、小さな背もたれに背中を預け、まじまじと桜を眺める。
「君は古の美姫にも勝る・・・・・・・」
画家は今までの険しい表情を綻ばせて、呟いた。
 気がつけば辺りは日も落ちて、暗い夜の世界が忍び寄っていた。
「―いかん」
しばらくキャンバスとパレットとを往復していた顔を上げ、「あっ」と息を飲んだ。
―彼方に皓々と昇る月も次々に姿を現す幾億の星の光でさえ、見劣りする光景が、なんと目の前にある。
静かに佇む桜はまるで未だに春の陽射しを受けているかのように燦然と咲き誇っている。花の一枚一枚が、日溜まりの如く、ほのかな灯となって周囲の闇を優しく照らしている。
こういう場合、たいていの人は言葉を失う。メックリンガーとて、例外ではなかった。
天才と称される画家でさえ表現できぬ作品を、どうして己が描けよう。

「見事だ」

言葉が腹の底にぽつんと落ち、彼は目を伏せた。
その拍子に熱いものが頬を伝っていった。













一週間ほど経って、彼はヴェストパーレ男爵夫人とお茶を楽しんでいた。
「そうだわ。エルネスト。作品は完成しましたの?」
夫人は彼をファーストネームで呼んだ。
一口お茶を飲んで、答えた。
「あの絵は断念せざるを得なくなりました」
そして、こう続けた。
「あれはあれで既に一つの作品となっておりました。もし私がそのまま描き続けていたら、私は盗作したことになる。・・・自然が創造した芸術の贋作など創るつもりはありませんよ」
と、言ってにっこり笑いかければ、驚いて目をパチクリさせていた夫人にも快活な笑みが甦る。
「さすが私の見込んだ男ね。エルネスト・メックリンガー提督?」
「勿体なきお言葉。バロネス=マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ・・・」



桜もそろそろ終わりの頃だろう・・・・・・・。



そう思うときにはキルヒアイスのもとを訪ねていた。彼にあの絵のことを話すと、「そうですか」と返ってきた。
「ところで、今から君は空いているかな?」
「ええ。予定はありません」
「では一緒に花見をしないか? ちょうど千秋楽だろうからね・・・・・・・」
先輩軍人の明るい声に、青年は紺碧の瞳を細めて頷いた。




個人的に好きなメックリンガーさん。芸術家としての彼を全面に押し出しました。
「我が征くは星の大海」でラインハルトの後ろで話してた彼とジークが気になってやっと書き上げたものです。
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