声が聞きたい

三十八度、七分―――


「まぁ大変」
枕元で妻が声を上げた。
「今日はお休みになられた方がいいわね・・・」
「何言ってッ・・・・・・・!」
上体を起こしただけでも視界は歪んで回り、吐き気と頭痛が一斉に襲いかかってきた。
「ダメです! 無理なさらないで」
夫の身体を押さえつけ、そっとベッドへと促す。横たえた上から布団と毛布を掛けてやる。
「一日くらいゆっくりなさって下さいな。・・・そのための熱なんですわ、きっと」
「・・・・・・・そうなのかな」
彼女に言われると、本当に神様から休むようにお告げがあったのかも、と思えてしまう。
「元帥府にはご連絡しておきますから・・・」
「・・・すまない、エヴァ」
妻はドアの手前で振り返り、にこりとした。


十分ほど間を置いて、ローエングラム公から「今日一日療養し、身体を労れ」とのお言葉を頂戴した後、エヴァがリゾットと薬を載せた盆を持って再び現われた。
「みんな俺がいないで苦労しているだろうなァ・・・」
「大丈夫ですよ。バイエルライン閣下やビューロー閣下は部下の中でも有能な方々なのでしょう? 一日くらい甘えてもよろしいんじゃありません?」
「うん・・・・・・・」
微妙な返事をする夫の複雑な面持ちの訳を、妻はどことなく察していた。
「ロイエンタール様にお会いできなくて寂しいのでしょう?」
「ぶっ!」
口元へ運んでいた匙のリゾットが飛び散る。
――あら、図星みたい。
そう思うと可笑しくなったらしく、肩を震わせてクスクス笑い出した。
熱に加えて恥ずかしさでより赤みをました顔で、ミッターマイヤーが鼻声を張り上げる。
「笑ってないでここ! 拭いてくれよ〜!」
「フフフッ。はい」
ようやく食事を終えてミッターマイヤーは一人、天井を見つめていた。

――図星だよ。

山のような書類との格闘も、小難しい文面とのにらみ合いも二人でやればあっという間に片付く。額を寄せ、あれやこれや世間話に花を咲かせていれば何の苦痛も伴わない。むしろ、これほど充足した時間はないだろう。
自分が妻のことを話せば、あちらは眉を顰め、いちいちからかう。
あちらが昨晩の女のことを話せば、「またか」と思いっきり溜息をついて肩を竦めてみせる。
話が沸点に達して、お互いけんか腰になりだしたところで昼になる。一杯のコーヒーで、朝からの話題は忘却の彼方だ。

情けなくも、ミッターマイヤー上級大将は若干涙目になってきた。
いかんと思っても、熱のせいか思考の全てが萎えて気持ちもどんどん後退していく。

――ロイエンタールの奴、今頃どうしてるだろ?
ああ・・・会って話がしたい・・・・・・
話を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




そうこうしているうちに、彼の意識は次第に薄れて、プツリと途絶えた。













冷たい空気が靡いて、額に垂れる前髪を撫でた。
「・・・・・・・ん」
意識がその変化に気づく。更に、
「起きたか。ミッターマイヤー」
「!!」
一気に覚醒して、がばりと布団をはねのけた。
「何だ、元気そうじゃないか」
ベッド脇に椅子に腰掛けた親友の姿があった。自分が病気なためか、彼はいつもよりも健康そうに見える。
「よう。具合はどうだ?」
と、白い歯をちらつかせて尋ねた。
「・・・・・・大分良くなったよ」
「そうか」
頭はまだ寝起きでもやがかかっているみたいだが、目の前だけははっきりとしており、その証拠に彼の金銀妖瞳は色鮮やかに映えている。
「わざわざ見舞いに来てくれたのか」
「ちょうど時間が空いたからな。それに、かの“疾風ウォルフ”の貴重なパジャマ姿を拝む良い機会だと思ってな」
ロイエンタールはいたずらっぽく喉で笑いを転がして、言った。
「趣味が悪いったらないぜ」
ミッターマイヤーも頬を緩ませた。
「さぞかしご満悦だろうよ」
彼は愉快げに「ああ」とうなずき、こう付け加えた。
「卿の声も聞けて、満足したさ」
一瞬。頬が強張る。
「俺の、声・・・?」
するとロイエンタールは体を背もたれから離し、長い体躯を折り曲げてかがみ込む態勢で語った。
「どうも卿が居らんと仕事がはかどらん。周りも俺も、あれほど退屈な作業をしたのは初めてだ」
そこまで言うと、床に吐息をついた。
呆気に取られていたミッターマイヤーはふんわりと笑顔を浮かべた。
「俺もだ。ロイエンタール。卿と話がしたくってさっきからうずうずしていたんだ」
「奥方が居るのにか?」
驚きと嬉しさの入り交じった声音だった。彼はくすぐったそうな表情で続ける。
「エヴァに通用しない話もある。卿だけにしか話せないことだって、たくさんあるんだぞ」
「ほう。そいつは是非拝聴賜らねばならんな・・・」







やがて、ロイエンタールからの見舞いの花を飾るために来た夫人は夫の部屋から聞こえる何やら楽しげな声の響きにくすりと笑いを零した。
――お邪魔しちゃ悪いわね・・・。
と、独りごち、お茶の支度をするため引き返した。


まるで「風邪引いた小学生」みたいな疾風ウォルフでした。

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