wiedersehen

柔らかな春の陽射しが彼の髪に当たると、光の粒になって踊る。
木洩れ日が美しい。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは一人で姉の邸を訪ねるところだった。
そう。一人で―。






「ラインハルト。よく来てくれたわね」
グリューネワルト伯爵夫人が出迎えた。
「どうぞ上がって。お茶を用意しますからね。お茶請けにシフォンケーキを焼いたのだけれど、お口に合うかしら?」
小首を傾げて謙遜する夫人に、彼はサファイヤの瞳を細めた。
「合わせますよ」
合わせなくとも、アンネローゼの作る菓子はいつもどれもラインハルト好みの味に仕上がっていた。
「今日は隠し味もなしよ。基本に戻って作ってみたの」
淡いベージュ色の生地に、生クリームを添えて食べる。
紅茶には香りの強い茶葉が使用されていた。
「大変美味しゅうございます。姉上」
「それはよかったわ」
ぱあっと華やいだ表情にニコッと笑いかけると、視線を姉から窓の外のバルコニーへ移動させた。
バルコニーにはチェアとテーブルが置かれている。
「・・・どうしたの?」
「姉上、バルコニーへ出てもよろしいですか?」
窓を開けると、爽やかな風が吹き抜け金色の短い髪をさらう。
備え置かれていたチェアに座り、中で見守っている彼女に「ホットチョコレート」を所望した。
アンネローゼは弟の意外な頼み事に、同じ色をした目をぱちくりさせた。
「お願いします。それと、しばらく一人にさせていただけますか?」
「・・・わかりました。すぐ用意しましょう。少々お待ちになってね」
姉はキッチンへ赴いた。




日はまだあんなに高い。
半年前、彼の向かいのチェアにはもう一人の男が座っていた。


―ラインハルト様。


「・・・なんだキルヒアイス?」


我に返って視線を逸らす。目の前には空席だけがあった。―キルヒアイスの特等席。
初めてできた友達であり部下であった。
幼い頃は活発でいつもにこにこと笑顔を絶やさぬ気の良い少年だった。
やがて少年は男を「ラインハルト様」と呼ぶようになり、忠実な腹心となって常に傍に控えていた。


そうだ・・・半年前もここで、奴と語らっていたのだ・・・・・・。


懐かしい日々はチョコレートの甘く温かい香りで鮮明に甦ってくる。
「どうぞ・・・」
アンネローゼ特製のホットチョコレート―ラインハルトとキルヒアイスの好物でもある。
「では失礼します。お夕食の時間になったら中にお入りなさいね」
「はい」










「ラインハルト様・・・」
向かい側に座ったキルヒアイスは言う。
「私は貴方とこの景色を眺めながら語らうのが何よりの楽しみでした」
「ああ。・・・私もだ」
燃えるような鮮やかな深紅の髪と、静かにたゆたう水面のような碧い瞳が穏和な表情を浮かべてラインハルトを見つめていた。
「そして、アンネローゼ様の作ってくださるホットチョコレートはどんな飲み物にも勝ります」
ラインハルトはそう話す親友を一瞥すると、カップに口を付け、バルコニーから臨む景色を黙って眺めた。



森の深緑。
草原の青葉。
菫の紫。
蒲公英の黄。



グリューネワルト邸の屋敷を彩る様々な色のパンジーが風にそよいでいる。
しばらくしてラインハルトが口を開いた。
「見ろ。キルヒアイス。空と大地があんなにも近くにまで迫っている・・・」
「はい」
「なのに我々からすると、空は果てしなく高い。どれだけ身長が伸びようとも、決して天に触れることはできんのだ」
空にかざした手掌は太陽の光を浴びて、肌が透けて見える。
「お前も、手の届かぬ処へ行ってしまった」
「・・・申し訳ありません」
そんな主君の様子を見ていたキルヒアイスはついに俯いた。
「死ぬ時は共に死のうと思っていたのだが」
「今思えば、それは至難の業というものでしょう・・・」
「ふん。本当にな・・・・・・・」
先に逝きやがってなどとは言わない。なぜならば。
「私がお前を殺したようなものだからな」
それを聞いたキルヒアイスは弾かれたように項垂れていた頭を上げ、
「いいえ。違います」
碧の瞳は強く、静かに言葉を彼の言を否定した。
「あの時、死ぬ間際私はアンネローゼ様に申しました。『約束は果たした』と―。
私は弟である貴方をお守りして命尽きることができました。これを名誉と云わずに何と云えましょう」
姉との誓い。
その内容を、ラインハルトは問わなかった。
「私はあなた方姉弟とお会いできて、幸福な人生を歩んだ気が致します」
不意に瞼の内側が熱くなるのがわかった。瞳が泳いでいる。
声が震えるのを必死に抑えながら、台詞を絞り出した。
「・・・私もだ・・・キルヒアイス。お前と出会えて・・・・・・幸せだった・・・・・・そして今、私を私たらしめているのは卿のおかげだ」
そこまで言うと、言葉が詰って出てこなくなった。


すると、キルヒアイスは子供の頃の、無邪気で少しいたずらっぽい笑顔を見せた。
ラインハルトにとって、極上の笑顔だった。








―――ラインハルト様、宇宙を手に入れてください。きっと・・・きっとですよ。










―・・・・・・ト。



ラインハルト・・・・・・・・・・










「ラインハルト? ラインハルト!」
目を開けると、姉が不安そうな顔で覗き込んでいた。微かに花の香りがする。
「こんなところでうたた寝しては風邪を引きますよ?」
「・・・・・・姉上。・・・・・・そうだキルヒアイス! あいつは!?」
譫言のように、彼の名を呼ぶ弟にアンネローゼは驚いた。
「ジーク!? ジークはここには居ないわ」
「いや! でも確かにそこに・・・・・・・」
指さした向かいのチェアにはキルヒアイスはおろか、誰も座っていない。
姉の手が弟の頭を優しく撫でた。
「夢でも見ていたのね・・・さあ、夕食の支度ができましたよ。行きましょう」
ラインハルトは重い体を持ち上げた。バルコニーの前方、遙か地平線に日が沈もうとしている。
空は紫、群青、濃紺。そして黒とグラデーションして広がっている。

屋内へ入ったとき、キルヒアイスが座っていたであろう方のチェアが少しずれてあるのを発見した彼は密やかに笑むと、窓をそっと閉めた。



今度はアンネローゼとジークを二人きりにしてあげたいなあ。
inserted by FC2 system