Kiss in the Dark

カーテンで締め切った窓の外では霙交じりの風が吹いている。
鋭く肌を刺す寒気は部屋の床をすっかり冷やしてしまっていた。

「嫌な天気・・・」
カーテンの隙間から外の様子を覗きながら、独りごつ。
―あの男はまだ帰ってこない。
使用人達もすでに引き払った邸内はひっそりと静まりかえっており、彼女の感じる寒さは更に募る。
仕方なくベッドに入ると眠らずにぼうっと天井を眺めて、耳は周囲の音を一つも聞き逃さぬようそばだてている。
――今日は遅いわね・・・何かあったのかしら。
頭によぎる出所の知れぬ不安に、内心驚く。
――何馬鹿なこと考えてるのよ! あんな奴、いっそ帰ってこなければいいんだわ!!
毛布をたぐり寄せ、口元まですっぽり覆い隠してしまった。
もう寝よう。
目を閉じ、睡魔の到来を待つが足先が芯から冷えてしまい、なかなか寝付けない。
両足を毛布の中で擦り合わせても無駄だった。





どのくらい時間が経っただろう。
終に眠れなかった彼女はベッドの上に座っていた。
何をするわけでもなく時折吹き荒れる風の音に耳を傾けていた。
夜なのにベッドサイドを青白い光が照らしている。使われていない暖炉といつも使うドレッサーが置いてある部屋の奥は漆黒の闇が包んでいて、より彼女の孤独感を煽った。
少し前までは独りぼっちになるなんて考えもしなかった。
毎晩妹や弟と一つのベッドに潜り込んでいつまでもおしゃべりに花を咲かせていれば母親が様子を見に来て、「早く寝なさい」と注意する。
又あるときは珍しく帰宅した父が絵本を読んで聞かせてくれたこともあった。

―そして灯を消して・・・「おやすみ」のキスをくださって・・・・・・・

記憶のページを捲るその手がはたと止まった。
現在置かれているこの状況はどうだ。
眠りへと誘うキスも暗がりの寂しさを慰める灯もない。
まさかあの頃の自分は、将来暗く冷たい部屋に一人で居ることは想像もしていないことだろう。
―だが全ては己で仕掛けたことだ。
今更何を悔やみ、何を嘆いたとしても温かい幸福な日は返ってこない。
そう。二度と・・・
―寒い。寒いわ。
まるで身体の真ん中にできた空洞に室内の停滞した空気が通り抜けていくような、この痛みにも似た不気味な感覚に背筋が震えた。

ふいとベッドから降り立ち部屋の入り口へ駆け寄った。
ドアノブを握るとそれは氷のように冷たくて。「ひゃっ」と叫びたいのをこらえて一気に引いた。



「!」
「キャアッ!!」



目の前に現われた巨大な黒い影に悲鳴に近い声を上げた。
影はこう言う。


「―何だ。まだ起きていたのか」


よく目を凝らせば、その見覚えのあるシルエットは邸の主人である男だった。


「おっ、驚かさないでよ! びっくりしたでしょ!」
思わずドアの枠にすがりついた。
「何しに来たの?」
「別に。様子を見に来ただけだ」
男は普段と変わらず淡々としている。
かえってそれが彼女の癇に障った。
「余計なお世話よ! 私は逃げも隠れもしないわ。それに・・・・・・・」
怒りにまかせて捲し立てるつもりだった口は、闇に溶けかけた男の無表情な顔を睨み付けているうちに勢いを落としていった。
そして心のどこかできつく結ばれていた紐がしゅるっと解けるのがわかった。

――いけない。
と、思ったときにはもう手遅れだった。



「・・・どうした?」
男の口調にも変化が起きた。
急に俯き黙りこくった女の顔を訝しげに覗き込もうとする。
こみ上げてくる怒りとは違う感情に彼女は困惑していた。
胸を突く微々たる痛みは体内の血を巡らせ、彼女に熱をもたらし、口内に甘酸っぱいものが広がる。
途端に体中の力が抜け、ドア枠を掴む指に一層の力が入る。
今だ理性が混乱する中、その場にへたり込もうとする体を男の手が支えた。
「おい・・・しっかりしろ」
掛けられた声は相変わらず淡泊なもので、その冷静さに無性に腹が立つと彼の手を打ち払った。
「平気よっ!! それよりよくもこんな薄ら寒い家に女を一人きりにして閉じこめておけるわね! 今時奴隷でもこんな扱いしないわよ! ・・・最低よ!! お前なんか!! お前みたいな男は・・・・・・・・・・」
言葉が途絶えた。尽きたと言うべきだった。
男がそっと口を開く。
「俺みたいな男は・・・どうする? ひと思いに殺すか?」
皮肉めいたその台詞はどこか自嘲の響きも禁じ得なかったが、彼女の中で、必死に支えてきたものが音を立てて崩れた。
「・・・・・・・」
――ああ。なんて愚かなんだろう。ここで弱気になってしまえば、あいつはますます調子に乗るであろうに・・・。


しかし、自身の神経は限界を達していた。
情けない表情を見られたくない一心で顔を覆った。



そこへハァと嘆息する男の声が降りかかった。
「悪かった」
謝意が籠もっているようでいないような、端的な一言ではあったがひどく穏やかな声音で発せられたことに彼女より彼の方が驚いていた。
むしろ上っ面だけの言葉より効果的な方法を男は知っている。
さりげなく女の背後へ手を回し、優しくじぶんの胸の中へ抱き寄せた。
女の肩が小さく跳ねた。
「冷たい体だ・・・」
外気に当てられひんやりとしていた軍服が次第に自分と彼との体温で温められていく。
男の温もりと匂いに包まれていると少しずつ気分も落ち着いていった。
「・・・謝ったって、許さないんだから」
「わかってる」
気が緩んでいるせいか、男の声に潤いがあるように聞こえた。
おそるおそる顔を上げてみれば男と目が合う。
その表情は暗いため今ひとつ判別が着かなかったが、彼の碧い方の瞳は夜の闇にもよく映えていた。
月と同じ明るさで―儚い光を滲ませた男の眼差しは決して窺い知ることの出来ない彼の心情を物語っている気がしてならなかった。

けれどもそれは格別の長さを誇った「刹那」だった。
男が視線を逸らしたことで自分が見惚れていたことに気づかされる。
急激に肩に訪れた寒さに夢から醒めた心地がした。

「―どうする?」 男は言った。
「今夜は一人で寝るか?」
再び見つめ返した彼の薄い唇の端にいつもの冷笑が浮かべられていた。
つと、男の指が頬に残る干上がった涙の跡をなぞる。
女は密かに唇を噛み締めた。
――だから言ったのに・・・これこそ奴の思う壺なのよ。
先手は男が早かった。
男はかがむと、彼女を掬うようにして抱き上げたのだ。
「きゃっ!? な、何するのよ!!」
宙に浮かんだ足をばたつかせる。
「暴れるな。大人しくしないと床に落とすぞ」
と、脅しつつ女の部屋のドアを閉めた。
「どこへ連れてく気!?」
「決まってるだろう? ―俺の部屋だ」
愕然とする彼女をよそに、男は意地の悪い微笑を浮かべ廊下の長い暗闇へと消えていった。


この二人も好きなんだよな〜
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