安楽椅子の主

あの人はいつもそこに居た。

お気に入りの椅子に座って

いつもどこか遠くを見つめている。

あの人の眼に僕が映ることはなかった。

最期の時ですら、見てはくれなかった。


―ねえ、僕を見てよ。
冷たい眼差しだって受け止める。

抱きしめてくれなくてもいい。
何だその目はと、叩かれてもいいから・・・―






長い夜を白い光が穿つ。
時折見る夢はあまりにも鮮明で、
親友には悪夢より質の悪い夢なのだと、冗談半分に話すけれど。
佇んでいる事実は決して打ち明けることはない。
 額には冷たい汗が浮かんでいる。
水が飲みたくなった。
廊下は静かな闇がすっぽり包み込んでいて、目が慣れるのをしばらく待たなくてはならなかった。
幾度となく床下が小さく震える。
歩いていると、指先に冷ややかな感触が伝わる。―どうやら取っ手のようだ。
「・・・・・・」
立ち止まって考えた末、おもむろにそれを掴むと前へ押し出した。
すぐさま視界に飛び込んできた窓からは月も出ていないにも係わらず、やけに明るい光が大量に漏れていた。
そして、その青白い光の中から姿を現した安楽椅子に彼は息を飲んだ。
 かなり年季の入った艶やかな椅子に、彼は近づくことを許されなかった。
これは自身が生まれ持った『罪』というものを思い知らされる物であったが、主は彼の背負う『罪』を受け入れることも認めることもなかった。
毎日飲んでは幼い彼をなじり、酒が抜けるとまるで魂の抜け殻と化して、茫然とこれに腰を落とすのだ。その間、視界に少年はいない。
 現在、椅子に宿る面影はある程度年を重ねた少年を尚拒み続けている。
それは彼も同様だった。


「処分なさらないのですか・・・」
いつか尋ねられたことがあった。
だがそれも一度きりだ。


茶色い光沢を放つ肘掛けからは微かなニスと木の匂いが鼻を突く。
やがて、降り出した雨が窓を打ち、その音より小さく遠く、しかし明瞭に雷鳴の轟きが聞こえる。
きっとどこかに堕ちたのだろう。
そうして彼は大粒の雨音に耳を傾けた。

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