朝のカーテン

ふわり。


その薄くて柔らかな気配に何度ドキリとさせられただろう。
すぐ、気のせいだったことを思い知るのに。
どうして幾度となくときめいてしまうのか。



朝。なかなか起きてこない主人が気になって寝室へ行ってみた。
養子の少年はかなり手を焼かされたそうだが、今となっては大いに共感できる。
本当に手強いお寝坊さんなのだ。
案の定、ベッドの上でシーツにくるまった主人が横になっている。
「いつまで寝てらっしゃるつもり? ほら、起きてください」
揺さぶると、黒い頭の頂が嫌がるようにシーツに潜っていこうとする。
目覚まし時計だってそりゃ頑張ったろう。何度鳴らしてもまるで「念仏」だ。
念仏だって頭の上で延々唱えられたらたまったもんじゃないと思うのだけど・・・
 ぐずる夫に妻は溜息ひとつ。そして腰に手を当てて一思案。
―実は作戦だったりする。隙を与えるための。

彼はまた穏やかな寝息を立て始めた。チャンス!


「こらっ!」

いきなり覆い被さると、脇腹のやらかいところをくすぐった。
「ぎゃっ!!」
彼はシーツの中で声になってない悲鳴を上げた。エビのように身をよじって一生懸命抵抗を試みるが、上から半分のしかかられているものだから上手く逃れられない。
この時の私の顔はさぞかし「悪者」じみていただろう。
「ひぃっ・・・わ、も、もう・・・お、起きる!起きる!」
呆気ない。
そうなら最初から素直に起きたらいいのに。
短く吐息して、「食事の支度してきますからね」と、言って去る。
 正直私は家事があまり得意じゃない。特に「料理」は大がつくくらい苦手だ。
よく結婚してくれたなぁと、元の食材は何だったのか問いかけたくなる真っ黒い塊を黙々と食べている犠牲者を眺めてはつくづく思う。
目が合えば、目尻と眉尻を下げて微笑みかけてくれる。すると胸がチクリと痛む。
大分月日が経つのに上達しない腕と、慣れてくる日常との平行線はあまりにも不甲斐なかった。それでも彼は不満一つ零さなかった。


どこかの科学者みたいなボサボサの髪。
眠たそうに垂れ下がる眉。
いまだ夢うつつを彷徨う両目。
よれよれのパジャマ姿。

どれほどだらしない格好でも飲み物にはきちんと紅茶をリクエストする。
食後の一杯は必ずソファで楽しんだ。
胡座を掻いて座るのは行儀が悪いと口では言うけれど、私は嫌いじゃない。
朝日に染まる特等席が眩しい。

なんでもない毎日がこんなにも愛おしいなんて。

時間は変わらず過ぎていく。
私だけ、あの頃に留まり続ける。
執着しているわけではないけれど、あのカーテンから風が入ってくる度私は過去へ突き飛ばされる。
そしたら困ったような微笑みを浮かべてあの人が私を抱き留めてくれるのだ―。
触れた手を放すまいと掴もうとすれば彼はそっと離してしまう。
「なぜです?」と、問えば首を横に振る。

この家が刻むのは過去ばかり。
彼は長い指を指して示す。
玄関へ行って、ドアを開けて。

「君はここにいちゃいけない」

私の目にそう言い聞かせ、大きくて温かい手が背中を押した。
小さく「あなた」と呼んでも彼は来ない。
あの日のリビングに佇み私が行くのを見送っている。
後ろの窓から風が忍び込んでクリーム色のカーテンがそよいだ。

あふれ出しそうになるのを堪えてドアノブを握ったとき、呼びかけられた気がした。
引き返したくなった時にはノブを回していた。



部屋に至るところにあの人の面影が残っていて、窓を開ければ匂いが甦ってくる。
たとえ姿形はなくなっても思い出は永遠で、いつまでも色褪せず私をときめかせてくれる。
きっと今も傍にいて、ソファで紅茶に舌鼓を打っているに違いない。そう思うと自然と笑みが零れた。

いつも通り出かける支度を終えて、戸締まりを済ます。

「あなた。行ってきます」

誰もいないリビングに声を掛け、玄関へと向かう。
ドアを開けば私の「現在」が再び動き出す。



「行ってらっしゃい」




と、そんな声が聞こえて―。




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