バロック=セレナーデ

冷たい闇のカーテンが頭上の際にまで垂れ下がってきている。
薪の割れる音が重い空気を劈くと同時に、

「ない」

安楽椅子に腰掛けていた男は返事した。暖炉から伸びる火がその輪郭をなぞる。
「・・・・・・どういう意味?」
「俺に家族はないという意味だ」
『いない』ではなく『ない』と言った彼の真意を、暖炉の傍に座り込んでいた女は計りかねていた。
「両親は・・・死んだの? それとも孤児だったと言うの?」
「後者は違うな。だが前者が正解だとも言い難い」
淡泊な口調が女の短い神経に触れる。
「何なの? それ。訳のわからないこと!」
「わかる必要はない」
この二人は実に奇妙な関係であった。
周囲は女を彼の「愛人」であると噂しているが当の本人たちにそういった意識は毛頭無かった。
二人が互いに抱く感情はかなり複雑で屈折しており、一言で表現できる言葉を探すのは困難である。
例えば、彼等は常に互いを罵り合うのだが突然寄り添い語らうことがあるのだ。今宵のように―。
先に沈黙を破ったのは男だった。
「お前の家族はどうした?」
女が肩を震わせた気がした。
「・・・・・・・母は私と一緒だったけど、妹たちは知らないわ。父はあの時・・・殺された・・・!!」
口調こそ落ち着いていたものの、言葉には無数の棘が含まれていた。幸福だった彼女の家庭はこの男の手で無惨に壊されてしまった。
だが彼は意に介すこともなく、続けて質した。
「何故自分だけ来た? 母親を一人残しておいて良い訳があるまい」
「余計なお世話よ!」
背中が燃え上がるような怒りを覚えた女は立ち上がりざま振り返った。
「お前にとやかく言われる筋合いはないわ! 母様だって、止めなかった訳じゃない・・・でも私は気が済まなかったのよ!! お前という罪人にせめて一矢報いねば、私は死んでも死にきれないッ!!」
吐き捨てるように言ってから、ゼーゼーと肩で呼吸し椅子の男を見下ろした。
彼は黙っていたがやがて「そうか」と呟き、
「じゃあさっさと殺せばいい」
「なっ!・・・」
大きく見開いた瞳はサファイヤのように美しかった。
「でなければ他の人間に盗られてしまうぞ?」
「・・・良いご身分だこと」
「俺を殺したいと思う輩はお前以外にもごまんといるということだ」
「そうでしょうね」
ふと、冷え切った爪先を灯す火が男の顔を包み込むように照らしていた。
色の異なる双眸は暖炉の中で燃えさかるそれを見つめている。
青い目は焔を抱いて煌めくのに対し、黒い目は頑なに拒み、暗く沈んだままだ。

―不思議ね・・・。 と、女は思った。

「おい」
呼びかけられて気づけばその二つの瞳が自分を捉えているではないか。
図らずも鼓動が乱れる。
「俺は・・・お前に殺されたいと言ったら―どうする?」
すぐに反応できないでいると躰の芯が急激に熱くなってきた。
「・・・・・・正気?」
これがやっとだ。
「さぁな。・・・狂ってるのかも知れん」
「そうね。狂ってるわ」
男は微笑んだ。戦慄させるものでもなく、穏やかでどこか悲しげな微笑は彼女の殺意を強く揺さぶる。
「・・・聞いてもいいかしら?」
「ああ」
「どうして、私がいいの?」
すると彼は今度こそ普段の冷笑を浮かべて女を見やった。
「お前がどうやって俺を殺すのか、いささか興味があってな」
「そう楽には死なせないわ」
両の拳を握りしめ、宣言するが如く言葉を発した。
「じわりじわりとゆっくり時間を掛けて、苦しみ悶えながら死んでいくのよ」
「ほう・・・。そいつは楽しみにしていよう」
と、せせら笑う男を振り切るように女は部屋を出ていった。
噛み締めた唇から血の味がした。






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